斎王のお歯黒とふたば葵

雲が愛宕さんへ参ると雨、お稲荷さんに参ると晴れ

5月15日の天候が気になりだしてきた。何があるか?「葵祭」である。
古来より京都では、「雲が愛宕さんへ参ると雨、お稲荷さんに参ると晴れ。」と言い習わされている。従って、前日の雲の様子をしっかりと確かめておいて、見物の準備をしなければならない。

さて、巡行見物するときは、薀蓄しあいながらが楽しいものである。
雅やかな王朝行列も、「綺麗だね」、だけではつまらない。
かといって、あまりに歴史的解説ばかりでは辟易してしまう。
そこでガイドブックの隙間を埋める雑学のいくつかに触れてみよう。

まず、斎王代を中心にした、女人列とも言われる華やかな列から始めよう。
斎王代列の斎王代は、お歯黒をしていて、その女人列はしていないことに、お気づきだろうか。斎王は既婚者で女人は未婚者であったということではない。
女性の未婚者と既婚者を区別していたのは江戸時代だけのことである。

平安時代では貴族の成人女性の儀式であり、貴族の男性にも広がっていたわけで、それ以前は聖徳太子のお歯黒が文献に残っているように、平安時代以前では、お歯黒は特権階級で行われていたものである。

そして、斎王とは、天皇家の内親王が上賀茂神社の斎院に入り、巫女として神に仕える王であるため、未婚であることが条件であった歴史を持っていた。つまり、斎王代行列の中で唯一成人貴族であり、未婚者であるのは斎王だけであるということがわかる。

明治天皇が皇族貴族に対し「お歯黒禁止令」を出してから、伝統的化粧としてのお歯黒はなくなり、現在では真白い歯が美の象徴と様変わりしているのも、歴史の面白さであるが、行列ではお歯黒が再現され、当時の意味を持っている。

葵祭にその斎王代が加わったのは、1953年に路頭の儀本列が復活したさらに後、1956年からの斎王代列で、一般市民の未婚女性から選ばれるようになったが、一般公募されているわけではない。

また、資格基準が公表されているわけではないが、京都の良家と思われる出自の女性が斎王代を勤めることは、暗黙の了解となっている。

さてさて、視点を変えて、斎王代が身につける十二単衣。
今年新調された三点は、亀甲の文様の表着、桃色地に葵の文様をあしらった唐衣、白を基調に松を描いた裳である。人間国宝で有職織師の喜多川俵二氏が、葵祭行列保存会に寄せられた寄付金550万円で制作に当られた力作である、と報じられている。

これを身につける斎王代は京都一名誉な大役である。しかし、着付けに3時間かかり、その重さ約30キロに耐え、しかも、おしとやかに長時間の行列をこなさなければならない重労働でもある。お役目に心から声援を贈りたい。

次に、葵祭で神紋にもある「ふたば葵」と「カツラ」が重用されていることに目を向けたい。
賀茂別雷命の「向日カツラヲツクリテ予ヲ祀レ」(山城国風土記)のことばより、賀茂祭を興し、祭りに関わるものは牛馬にいたるまで「ふたば葵」を「カツラ」に挿し飾り執り行われてきたのが葵祭である。

祭りに使われる葵楓(あおいかつら)は1万本とも1万2千本とも聞く。京北の山地や雲が畑など清き水を好むふたば葵は、祭礼の4、5日前に採集され、乾かぬよう貴船の清流に浸たされ、奉納の日を待っている。この奉納は代々「葵党」と称される羽田家、瀬戸家などが行っている。

ふたば葵は「こうやまのかみくさ」の由来で、賀茂別雷命が降臨された神山に自生していた神話に基づいている。

昨年140年ぶりに復活した「葵使」では、徳川家康を祭る久能山東照宮(静岡市)に上賀茂神社から、ふたば葵が届けられた。この行事は、葵を家紋とする徳川家が武運長久の願いを上賀茂別雷神社のアオイに託して行っていた行事だと聞く。

応仁の乱後、中断していた賀茂祭路頭の儀を復活したのは徳川の世であること、徳川の本家が松平家で、松平家は上賀茂神社の社家であること、などなど「葵」や「カツラ」にまつわる話にも紙幅が足りなくなってきた。

次の句を〆とさせていただき、またの機会に委ねたい。

地に落ちし葵踏み行く祭かな 正岡子規
草の雨祭りの車 過ぎてのち 与謝蕪村