凶作を祓う賀茂競馬こそが葵祭のルーツである

葵祭  雅と勇壮

いよいよ葵祭が迫ってきた。
京都三大祭のひとつである葵祭は、一番歴史が永く、かつ誉れ高き由緒をもつ祭である。

祇園祭は最もポピュラーであるが、その起源は貞観11年(869)で、下京の町衆の行なう祇園御霊会であった。
そして、時代祭は明治28年(1895)の起源である。その歴史はもっとも浅く、遷都1100年記念に湧く京都における、「第四回内国勧業博覧会」での時代仮装パレードが始まりである。このときに京都パビリオン「平安宮大極殿(だいごくでん)」が残され、それが現在の平安神宮となり、神宮の祭礼としての時代行列が継承された。

最後に、葵祭(賀茂祭)の起源は、平安京遷都となる前の古墳時代後期、欽明天皇(540 〜571年)のときである。つまり、山城国の世より行なわれていた祭礼なのである。
平安時代中頃、京の都の祭といえば葵祭(賀茂祭)を指し、これが都人の最大の祭と言わしめるまでの隆盛を誇っていたのである。

その後時代の流れの中、祭は衰退を見たが、その由緒の正しさは明治天皇の旧儀復興の仰せの折、「日本三勅祭(ちょくさい、国営の祭)」の一つとして選ばれ、その祭儀が執行されたことが証明している。
戦後勅祭がなくなった現在も、葵祭は天皇からの勅使が遣わされ、その祭礼が始まることを知る人は少ない。

aoi_1000-146葵祭と言えば、5月15日の葵祭行列巡行における平安絵巻。とりわけ十二単(じゅうにひとえ)で腰輿(ようよ)に乗る斎王代と斎王列、その優雅で華やかな王朝行列にスポットが当てられる。
これこそが他所にない京都らしさをイメージさせるのであろう。

ところが、巡行列の先頭は「乗尻(のりじり、昔の賀茂競馬の騎手)の騎馬6騎」、第一列は「検非違使(けびいし、平安京の警察)と山城使(山城国の治安吏)及びその従者」であり、それらが雅やかなイメージではないことに気づくはずだ。

葵祭路頭の儀、舞装束の乗尻(賀茂競馬会を競っていた騎馬隊)が祭の主人公である勅使列を先導する
葵祭路頭の儀、舞装束の乗尻(賀茂競馬会を競っていた騎馬隊)が祭の主人公である勅使列を先導する
華美で雅やかな祭に変化していったのは、山城国が平安京になり、嵯峨天皇により三大勅祭とされた時からである。
それ以前の葵祭(賀茂祭)は、荒っぽさを見るために近隣近郷から多くの人馬が集まる祭礼で、京都が山城国であった時の荒々しくも勇壮な祭であった。
その名残が先頭列、第一列に表わされている。

それは葵祭の巡行行列の前に、5月に入るや前儀として始まっている。
上賀茂、下鴨、両神社に継承される賀茂祭(葵祭)の「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」、「歩射神事(ぶしゃしんじ)」、「賀茂競馬(かもくらべうま)神事」を見れば、この祭の核心が見える。
15日巡行の路頭の儀に衆目は集まるが、巡行到着の両神社での社頭の儀の後には、いずれも「走馬の儀」や走馬(山駆け)が行われていることからも解る。

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この点を文献に尋ねると、「飢餓疫病をもたらした風水害による凶作を祓うため、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせた」との事が、賀茂祭の起こりであると『賀茂縁起』に記されていると聞く。

賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸期元禄七年(1694)に復興された時である。
応仁の乱(1467年)以降、それまでは、神事を除いて賀茂祭(葵祭)は行われていなかったのだ。

さて、今年の小生の祭り見物は、まず松並木をぬって北上する鴨川沿いの加茂街道の接岸か、対岸で観覧し、上賀茂神社に向かいたい。来年こそは、「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」などを見物し、祭りの核心部分に触れておかねばなるまい。